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フラットランド

『フラットランド』という小説があります。100年以上も前の本です。あらすじはこうです。主人公は、2次元世界=フラットランドに生きる「三角形」です。その世界には、王様や貴族、平民や職業があります。角の多さで階級が決まっています。ある時主人公は夢で1次元の世界に行きます。そこにも、同じように様々な存在がいるのですが、すべて「点」なのです。主人公は、点に対して右や左、長さといった概念があることを伝えるのですが理解されません。そして、点は点として、今の生活に十分満足しているという話になります。そんなある日、主人公の元に「球」が現れ、「高さ」という概念があるのだと伝えます。しかしやはり主人公には理解できません。そして、球は主人公が住むフラットランドを上から見るという経験を提供し、こんな世界に住んでいたのか!と主人公が衝撃を受けます。主人公はその経験をフラットランドの住民達に伝えるのですが、永遠に理解されないというお話です。

フカイリとして考えさせられるのは、人と人のコミュニケーションもまた同じではないかということです。たとえば、時間がたっぷりある大学生や新入社員達は自由です。足りないのはお金かもしれませんが、様々な方法で得ることができます。そこに、責任を持って仕事している人間が現れて、その自由にはまだ「責任」がない。「責任」を背負ってから選択できるようになる自由は、もっと素晴らしいものだよ。と話したとしても、彼らには理解できないでしょう。たとえば、工場の現場にいる人間たちが日々の業務をよりよくするために工場の改善に勤めていても、何か一つ購入するときに、どのくらいお金を使えるか判断するのは難しい。そこに、お金に関する意思決定ができる経営者が現れて、じゃあ、これとこれを買ってこう組み合わせれば安くて便利なものになるじゃないかとアイデアを考えることは容易ですが、やはり工場の人間にすぐできる発想ではないのです。
こうした次元の壁を超えて、新しい世界に行くことはすべての人にとって幸せなことなのでしょうか。「点」が話したように、彼らは現状で十分に幸せなのです。むしろ、主人公である三角形が「点」の世界を見ることができたことや、視野が広がったことのほうが素晴らしいことに思えます。同時に、「点」達にとっては、三角形という未知の存在について語り、それについて思いはせる機会を得たことだけで十分なのかもしれません。主人公が点の世界に行ったことも、彼らに三角形の姿を見せることができたことも、球と出会いフラットランドの全貌を上から眺めたことも、すべては”奇跡”であり無二の経験です。そこに関わった人がどのように変わっていくのかは当人の話であって、私たちがこうすべきだ、ああすべきだと考えたとしても、やはり選べるのは当人だけです。

フラットランドでユニークだと感じるのは、次元をまたいでも言語は一緒という点でした。よく映画で、舞台はフランスなのに全編英語という奇妙なことが起こりますが、私たちはあの設定に違和感を感じません。しかし言語は同じでも、次元の理解ができない人たちの会話はかみ合わないばかりか、結局は存在そのものを受け入れることができないという結果につながります。文化が違うのです。表面的な言葉だけでは、真の理解に到達できません。コミュニケーションは常に、こうしたストレスを抱えています。
フカイリは、できる限りこの次元間を自由に行き来できるような存在でありたいと思っています。しかしそれは同時に、私たちの理想を押し付ける行為となったり、理解が困難なことを伝えてしまいかねません。それでも、私たちのコミュニケーションは、常に、わかりやすい形でアウトプットされます。文章や、映像や、Webや、グラフィックデザインとして。それは、平面であり、立体構造物であり、時間軸をともなった存在です。形にし、その次元に合わせた方法論を組み合わせる技術が、フカイリにはあります。
私たちは、フラットランドに生きています。ただし私たちの世界は、多様性に富んだ価値観の数だけ”奇跡”が起こる可能性に満ちている、と確信した上で。

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